「ふっ」

 早朝の澄んだ空気の中に、鋭い呼気が放たれる。

 同時に突き出された腕が空を裂き、流れるように振り上げられた脚は大気を割る。

 ゲルヒルデはマスターの日課を、庭に面した縁側からじっと見つめていた。

 その動きには無駄がなく、無骨でありながらどこか人を引き付けずにはいられない美しさを秘めていた。

 マスターは毎朝の鍛錬を欠かさず、ゲルヒルデもまた毎朝その美しさに見惚れていた。

 しばらくして、一通りのメニューをこなしたマスターが息を調えながら縁側へとやってくる。

「どうしたのゲルヒルデ、そんなにじっと見つめて。面白いものじゃないでしょう?」

 ゲルヒルデの視線に気づいたらしいマスターが、置いてあったタオルで汗を拭いながら聞いてくる。

 ジャージ姿の体は、女性と言うことを考慮しても少し背が低い。ショートカットにした髪とやや童顔の顔立ちにはボーイッシュな魅力がある。  人間の美醜の感覚はよく分からなかったが、美人の部類に入るのだろう。

 そんなマスターの質問に、犬型神姫であるゲルヒルデはまっすぐにその目を見て答える。

「いえ、すごく興味深いです。マスターの動きは洗練されている。マスターに適う者は居ません」

「そんなことないよ、私より強い人はいっぱいいる」

 苦笑しながらそんなふうに言うマスターだが、ゲルヒルデはこのマスターが最強であることを疑わなかった。

 実際に、マスターが通う道場において、マスターに勝てるものは男女合わせて、いや師範を含めてもだれもいなかった。

 身長差やリーチの差、更には体重差をも覆し、マスターはあらゆる相手をノックアウトした。

 小さな道場でのことだし、上には上がいるだろうことはもちろんゲルヒルデにも分かっていたが、それでもゲルヒルデの中のマスターは最強の存在だった。

 だから、と言うわけではないが、最強たるマスターの神姫である自分もまた最強でなければならないと思った。

 何をもって最強とするのかはよく分かっていなかったが、ただとにかく強くなりたいという思いだけは本物だった。

「マスター、私にもその武術を教えてくれませんか?」

「教えてって、空手を?」

 マスターは驚いた様子でゲルヒルデの顔を見る。

「はい、私は強くなりたい!」

 ゲルヒルデの目は真剣だ。それを見て、マスターも腕を組んで考え込む。

「う〜ん、確かに神姫の中でも武装神姫はお互いに戦ったりするらしいけど、ゲーデにもそういう闘争本能みたいなのがあるのかな?」

 ゲルヒルデの顔を見ながら首をかしげるマスター。

「でも、神姫に格闘技って、意味あるの?」

「どういう、意味ですか?」

 不思議そうに問い返すゲルヒルデ。

「う〜ん、私はそっち方面ってあんまり詳しくないんだけど、神姫ってプログラムで動いてるんでしょ?」

「はい、そうですね」

「じゃぁさ、わざわざ武術なんかやらなくても動けるんじゃないの?」

「えぇと……?」

 マスターの言っていることの意味が分からず、困った顔をするゲルヒルデ。

「あぁ、ごめん。私もあんまりうまく説明できないんだけどさ」

 少し考えてからゆっくり話だすマスター。

「武術ってさ、自分の体を操る術なのよ」

 一度言葉を切り、ゲルヒルデの顔を見る。

「人間ってね、自分たちで思ってるほど実はあんまりうまく体を動かせてないの。同じようにしてるつもりでも、正確に定規で測ったら毎回ずれてる。自分の体を正確に動かすのって結構難しいのよ」

 真剣に、マスターの話を聞くゲルヒルデ。

「まぁ理由はいろいろあるんでしょうけど、そのうまく動かせない体をうまく動かせるように頑張ろうってのが武術、武道かな? 技術だけじゃなくて精神的な意味も含めて」

「なるほど……」

 思ったより、奥が深い。ただ技を習って強くなれるというものではないらしい。

「でもね、神姫ってプログラムで動いてるんだったらさ、最初から正確に体を動かせるんじゃないのかな? だったら、武術とか習っても強くなれるとは限らないよ。もちろん、精神修業にはなるかもしれないけど、それなら武術である必要はないと思うし」

「あ、いえ……」

 なるほど、意味がないとはそういうことかと納得する。

「そういう意味でしたら、私も正確に素体を動かせるわけではありません」

「え、そうなの?」

 神姫は言うなれば小さなロボットだ。

 AIで動く機械である以上、常に正確な動作をしていると思われがちだが、実はそうではない。

 まぁ、ゲルヒルデもマスターと同じでそういった小難しい話は苦手なので詳しい原理までは知らないが、神姫にも人間と同じ程度の動作の誤差は発生する。

 つまり、武術の習得には意味があると見るべきだ。

「でもさ、プログラムで動いてるんだったら、そこをいじらないと動作は変わらないんじゃないの?」

「いえ、ちゃんと学習機能がありますから、動きに関しても学習しますよ?」

「そうなんだ……。じゃぁ明日から一緒にやってみる?」

「はいっ!」

 嬉しそうに、元気よく返事をするゲルヒルデ。

 これで、マスターのように強くなれると思うと、今から期待に胸が膨らむ。

 そんなゲルヒルデを見ながら、マスターも一緒に練習する相手ができたことを喜んでいた。

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