プリンセス・ドラッグ。
マスターから送られてきたデータを受け取って、ジークルーネは首を傾げた。
それが、今度の仕事の目標らしいのだが……。
「酩酊感と多幸感? 典型的なアッパー系ドラッグの症状だと思うけど、なんでそれがこっちに回ってくるのさ。こんなの厚労省の仕事じゃないの?」
麻薬取締り官は厚生労働省の所属だし、麻薬取締り法違反なら警察の逮捕権の範囲内だ。公安調査庁である自分たちの出番はない。
「それがな、そいつは麻薬であって麻薬じゃないんだ」
「はぁ、なにそれ?」
禅問答のようなマスターの答えを無視してデータの先に目を通す。
「なにこれ、神姫専用の麻薬?」
そこに記されていた内容に、ジークルーネは目を丸くした。
「そ、こいつは神姫にのみ作用する麻薬、というか薬ですらないな、そういうプログラムだ」
なるほど、それなら確かに厚労省の管轄ではない。あっちは人間用の麻薬が専門だ。神姫用プログラムなど知ったこっちゃないだろう。
だが、それでもまだ疑問はあった。
「いや、これが単なるドラッグじゃなくて、神姫用のウィルスプログラムだってのは分かったけど、それなら普通に警察の仕事じゃないの?」
一昔前とは違い、ネットに関する法整備も進んでいる。ウィルスプログラムの作者を逮捕できる法律がないなんて間抜けなことは今ではないはずだ。
「それがな、そうでもないんだ」
確かに悪意を持ってウィルスプログラムを制作、配布したものを逮捕する法律はある。だが、今回の事例はその法律で対処できる範囲かどうか微妙なところらしい。
「そもそもこれがウィルスプログラムと断定できるかどうかも怪しいんだ」
法律上のウィルスプログラムの定義は曖昧らしい。場合によって認定されたりされなかったりするらしいのだが、今回の場合一番の問題はこのプログラムの配布が必ずしも無差別ではないということだ。
「最初に神姫用のドラッグだと言ったろ? まさにこれはドラッグなんだ。中毒性を持ち、感染した神姫は自らそれを求めるらしい」
半ば強制されたものとはいえあくまで、自分でそのプログラムをダウンロードするというのだ。しかも、その効果を了解したうえで。
「普通のウィルスプログラムのようにいきなり送りつけられてきたり、騙されてダウンロードしてしまうのとは違う。あくまで、本人がそのプログラムを求めてるんだ」
それでは、普通のプログラムダウンロードと変わらない。
内容がどうあれ一般のプログラムを自ら使用する以上、自己責任でというのが司法の立場だというのだ。
神姫はあくまでマスターの所有物というのが法上の解釈だ。破壊されたとしても器物破損。ましてや自らダウンロードしたよく分からないプログラムでバグったとしても、せいぜい民事訴訟で損害賠償を求めることくらいしかできない。
もちろん神姫に人権などあるはずもない。
つまりは……。
「警察は動かないってことね?」
「そういうことだ」
神姫の立場からしたら業腹な話だが、こればかりはどうしようもない。神姫がこの世に登場してから五年余り、その他のMMSを含めてもそれほど長い時間はたっていない。対応した法整備がなされるにはあまりに短すぎる。
そもそも一般の人の神姫に対する認識はあくまで玩具か、よくて自律型の携帯端末だ。法に守ってもらおうなんてのは虫がよすぎる。
「ま、だからボクみたいのがいるんだけどね」
「そうだな、法がどうだろうと一般の認識がどうだろうと、目の前で起こっている事実には代わりはない」
マスターの言葉に、深く頷く。
困っている神姫がいて、それを助けられるかもしれないなら、何を迷うことがある。かつて、自分もそうやって助けられたのだから。
「で、それだけなの?」
「なにがだ?」
「何がじゃないよ、こちとら慈善事業じゃないんだ。れっきとした政府の諜報機関……の人間の私物神姫に動けっていうくらいだから、何かあるんでしょ?」
「いや、何かってわけじゃないんだが……」
マスターはジークルーネの追及に少し頭をかきながら答える。
「このプログラムは、神姫の精神に直接作用するわけだ。今はただの麻薬中毒患者に仕立て上げる程度の効果しかないが、もしこれが自由に神姫の精神状態を操作できるようなものだったとしたら……」
その先は、想像するだけでも恐ろしかった。
自分が中毒患者になって麻薬のためになんでもやるような神姫になってしまったら……これはおそらくそんなレベルの話じゃない。
神姫の精神を操る。それはすなわちAIを操るということだ。
神姫のAIは特殊なものだが、AI自体は医療用や介護用、建設用に軍事用とあらゆるMMS、ロボット等に搭載されている。
これはすべての神姫、人にとっても他人事ではすまないかもしれない。
そう思い、気を引き締めるジークルーネに、マスターが一言付け加えた。
「それにな、実は今回の件、お前をご指名での依頼だったんだよ」